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地震から一ヶ月。
あの午後3時前のあの時刻に、みんなで黙祷を捧げましょうと、市の防災アナウンスがあって、
一人家に居たタケちゃんは静かに目を閉じて祈ったらしい。
私は仕事だったので、そんなアナウンスがあった事も知らなかったけれど、
職場では自然と、あの時刻が近づいた頃、
「ちょうど一ヶ月前の今頃だったよね・・・」
と、みんなで話をしていた。
 
阪神淡路、中越、ハイチなどの大地震の統計で、
大地震の約一ヶ月後に再び大きな地震が来るとの噂があり、
まさかね、でももしかしたら・・・と、得体の知れない恐怖をごまかしながら、
なるべく気にしないようにしようと思っていた矢先、
その噂どおり、先日大きな余震があった。
テレビに表示された数字は、震度3とか4で、この一ヶ月に何度も起きている地震と同じ扱いだったけど、
あの余震は他の余震とは違って、まさに3月11日の時と同じような感覚の揺れだった。
下からグググと縦に揺れて、その後大きく横揺れした。
あの時よりは短かったけど、底知れぬ怖さがあった。
夜遅かったので、家族と一緒に居られたのがせめてもの救いだった。
 
そして、ピッタリ一ヶ月経った今日の夕方、また大きな余震が。
今回は、私はタケちゃんと車に乗っていた。
車のテレビを付けていたら、
ビロンビロン!ビロンビロン!
と、あの恐怖心を煽る緊急地震速報の音が鳴ったので、
急いで路肩に止めたら、数秒後にユッサユッサと車が揺れ始めた。
今日の余震は、震度6とか。
そんなの、余震とは言えない立派な大地震じゃないかと思っていたら、
やっぱり余震の余震が発生しているらしい。
これじゃあ、どんどん複合的に地震の数が増えて行くばっかりだ。
終息なんていったいいつになるんだろうか・・・
 
少しでも揺れると、原発が気になる。
命がけで復旧に当たってくれている人々は無事だったのか?
そして、この一ヶ月の彼等の努力が台無しになってしまうんじゃないかと。
 
終わりの見えない事態は、いったいいつまで続くんだろう・・・
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11日深夜、夫が帰って来た頃に、
私の手元にどんどんとメールが届き始めた。
それぞれの送信時刻を見ると、地震直後から始まり夕方にかけて。
みんな、心配してメールをくれていたようだ。
ありがとう。
夜中、それらを読みながら改めて涙が出た。
 
今回、地震直後には電話もメールも使い物にならなかったけど、
私は携帯というツールがあって良かったって思った。
職場から逃げる時も、携帯を握り締めていた。
徒歩で帰宅途中の夫とも、そのうち必ず連絡が取れると、
どこかで安心していられた。
離れた所に住む人達にも、無事を知らせることができる。
 
メールがダメだった時も、ネットは正常だったので、
ツイッターが役に立った。
隣に住むalohaちゃんが、家族と一緒に居て無事だったことも、
ツイッターで知ることが出来てホッとした。
市の細かな情報も、知ることが出来たし、
アドレス登録することで、防災放送よりも早く携帯へ逐一送られてくる。
 
自宅地区の被害が大きく、出社して来れなくて心配している同僚へ、
会社の状況を知らせたり、
同時に励ましの言葉を送り合えた。
特にこの同僚達とのメールのやり取りは、本当に助けられた。
『全員に返信』で、みんなで励まし合えた。
仕事から帰ってからも、ひたすらメールを打っていた。
 
alohaちゃんもブログに書いていたけど、
こんな状況になり、人間の本質が丸出しになったって。
「見ちゃったな、この人の本当の姿」
みたいな部分を。
 
そして、私はやっぱり今お付き合いしている人達は、
これからもお付き合いしていく人達なんだって、改めて思った。
知らず知らず、実はしっかり選べてこれていたんだって。
地震が起きてから、三週間経過・・・
私の住んでいる市では、たくさんの人々の力により、着々と復旧作業が行われている。
 
地震以降しばらくは、液状化によって吹き出た泥が乾いて風で舞い上がり、街中が砂埃の中にあった。
出掛ける時には、マスクと帽子は必須だった。
現在もマスクはいるけど、その大量の砂は大勢のボランティアなどの手によって、速やかに土嚢袋に詰められ、現在は道路の脇に山済みにされている所が多い。
 
2月に、ウチの地域から海沿いにかけての主要歩道に、目の不自由な人用の点字プレートがズラーっとはめ込まれたんだけど、今回の地震ではこれが仇となった気がする。
埋められて間がなかったこともあるのだろうけど、ほとんどのプレートが外れたり浮き上がったり沈んだりして歩道を分断してしまった。
それを境に亀裂が入り、自転車で走っていても車輪がはまってしまってハンドルを取られてしまう。
そんなふうだった歩道も、除々に整備されつつある。
 
私は、地震翌日の臨時休業日を除き、翌々日の日曜日から仕事先の社内復旧作業に出社したので、被害の大きかった駅周辺の状況を日々自分の目で見てきた。
ある朝は、危険な箇所には注意を促すコーンが立てられていたり、
昨日までは放置されていた崩れた路側帯が、今朝は柵で囲んで入れないようにしてあったり。
誰かが、日々作業を行っていて、私達が安全に暮らせるように働いているんだと実感した。
 
三連休の頃までは毎日、ウチの近所に設置されたボランティアの受付所に向かう大勢の人達と毎朝行き合いながら出勤した。
実は、私はちょうどこの頃、こういう状況下において、
自分の仕事内容が本当にしんどくて辛くて、
毎日悩みながら出勤していた。
そういう名も知らない多くの人の働きに比べて、自分の仕事は何かの役に立つのかと…
 
ジャージ姿に首に手ぬぐいを巻き、大きなシャベルを担ぎながら、ボランティアに向かう人に、
給水作業をしてくれている人に、
道路を整備してくれている人に、
交通整理している人に、
郵便屋さんに、
ゴミの収集してくれる人に、
とにかく、全ての人に、
「ありがとう、よろしくお願いします。」
と、心の中で呟きながら、毎朝、自転車を漕いだ。
 
正直、ここまで感謝する日々というのは、恥ずかしながら生まれて初めてかもしれない。
タケちゃんに、私のそういう気持ちが浸透したのかどうかはわからないが、
私が仕事に行っている間に、友達を誘ってボランティアに参加していた。
隣の地区の戸建の庭の泥掻きや、側道の泥を土嚢に詰める作業をしたらしい。
参加したことで、本人もまたいろいろ感じたこともあったようで、
いろんな話をしてくれた。
こういう事態でなければ出来なかった経験。
タケちゃんとたくさん話したことで、
今やるべきことは、自分の仕事を真面目にやって何かを感じることなのかもと、
少し前向きに捉えることができたのだった。


夕方、ようやくヨッシーと電話で話すことが出来た。
 
「おっ母さん、やっと通じたよー・・おっ母さんの携帯だけ通じないんだよ、何で?」
「知らんよ、そんなん」
「大丈夫なの?そっちヤバイんだって?ランド沈んでプカプカ浮いてるらしいじゃん~ピアリの駐車場が水没してるんだって~おじいちゃんの方は大火災らしいし・・・」
「って言うかさ、大雑把過ぎるんだよ、その表現」
 
このタイプの奴が、デマ情報を流すんだな、まったく・・・
でもまあ、アイツなりに心配はしていたようで、話ができたことでホッとしたと言っていた。
 
 
そして、一番最後まで連絡が取れなかった夫。
夜の9時過ぎにようやく電話が通じた。
電車が動いてないので、新宿御苑にある会社から徒歩でこちらに向かっていると言う。
テレビのアナウンサーが、
「むやみに歩いて帰宅しようとせずに、今一番安全な場所で待機してください」
と、何度も呼びかけていると、夫に伝えたが、
「今更、もう遅いし…今もう東京駅の辺りまで来ているから、このまま歩いて帰るよ」と。
 
そう話している間にも、余震は頻繁に起こっている。
看板とか、電柱や電線とか、気をつけてよ~
そして、夫も言っていた。
「何だか知らないけど、ヨッシーとは早くに電話で話せたんだけどさぁ、そっちはヒドイことになってるんだって?アイツが、えらい興奮して喋ってたけど。ウチは大丈夫?沈んでない?ヨッシーが、親父んとこが燃えてるとか言うから、スゲー心配したけど、さっき親父とも話して、燃えてるのはコンビナートだから大丈夫だと言ってたし。アイツ、ホントに人騒がせだよな・・・」
 
東京を突っ切って帰宅したのは、日付が変わった深夜1時前だった。
この日はとても寒かったので、体力的にも大変だったようだが、
無事に帰ってきてくれて安心した。
 
 
 
ところで、その後も、ヨッシーから何度かメールが来たけど、
 
「岐阜は平和 笑」 とか、
 
「マジ?まだ揺れんの?食いモン、送って」 とか、
 
25日には、とうとうこちらを気遣う言葉も無く、
「仕送り、プリーズ♪」 とか・・・
 
私は、アイツの故郷の見慣れた場所の被災写真が掲載されているサイトを見るようにと、何度もメールを送ったが、結局他人事だったようだ。
ヨッシーと同い年のプロゴルファー石川選手と比べることが、そもそも間違っているんだろうけど、それにしったって余りにも違いすぎやしないか?
だって、アイツは仮にも実家が被災しているんだぞ?
自分は平和ならいいのか?
 
・・・いいんだな、きっと。
 
 
子供を引き取り、自宅へ向かう途中にコンビニに寄り、
一人2本限りと張り紙が出ている水やお茶、
とりあえずスグに食べられる菓子パンなどを見繕って、
長い行列に並ぶ。
並んでいる最中、タケちゃんはテキパキと気を働かせ、
電池と除菌ティッシュなどを持って来た。
なるほどね。
子供の方が、落ち着いている。

やっとレジにたどり着くと、パートの女性が、
「子供がM小で待機しているの。早く迎えに行ってやりたい・・」
と言いながらも、黙々とレジを打ってくれていた。
申し訳ないと思いながらも、
「ありがとうございます」
と言って店を後にして、早足で家に向かう。

自分達の地域の道路は、会社近辺から学校までの状況とは違い、
大きな目立った損傷も無く、道路や歩道も整然としていた。
それでも職場の揺れを思い出すと、家の中の物は相当なダメージだろうと想像した。
リビングのあのラックは倒れてるだろうから、床にはヒドイ傷がついてしまったに違いない。
テレビやDVDプレーヤーもメチャメチャだろう。
暗い気持ちになりながら、マンションのエントランスに到着。
タケちゃんと、ドキドキしながら玄関のドアをそぉ~っと開けてみると、
意外に下駄箱の上の飾りも倒れてないし、いつもの我が家だった。
心配なリビングは、ラックもテレビもいつも通り。
積んであった雑誌がバラバラと崩れていたのと、
オーディオの上に飾ってあったミニカーが床に落ちていたくらいだった。
台所も、全ての戸棚のノッチの効果が発揮されていて、何事も起こってなかった。
ただ一ヶ所、洋間に設置してあった自転車が数台吊ってあるポールが完全に倒れていた。
夫の大切な自転車ごと壁に倒れていて、何台かのフレームが重なり合って倒れていた。
ちなみに、このポールのすぐ横は私の寝床である。
イビキーマンの騒音から逃れるために、ここに避難して穏やかな睡眠を確保している。
もし夜中に起こった地震だったとしたら、
間違いなく私は自転車の下敷きになって血まみれで発見されていただろう。
倒れたポールを見て心底ぞっとした。

12日くらいまでは、まだ水も出たので、湯船に溜めて、キャンプの時に使った水をタンクを出して、
そこにも水を溜めた。
ご飯を一升(一升炊きの炊飯器を買ってから初めて一升炊いた)炊き、
半分はオニギリにして、半分は冷凍に。
万一停電になった時の為に、懐中電灯と非常時用のろうそくも準備。
まだまだ比較的大きめな余震が多発していたので、
その度にリビングのテーブルの下にタケちゃんと潜りながら、
変なテンションでテキパキと動いていた。

情報を得るためにテレビをつけると、全てのチャンネルが地震関連の番組になっている。
どんどん入ってくる映像は目を疑うような光景ばかりだった。
自分の市も大津波警報区域に入っていて、チカチカと点滅している。

大津波なんて来たら、この市だって全滅だ・・・

私は、あの日ビルの13階にある職場にいた。
いつになく仕事は調子良く、売り上げに貢献していて、
15時までの勤務を気分良く終えられるはずだった。
 
が、最初は縦にグッグッグと落ちるような感覚で地震が始まった。
あ、地震だね…と隣の同僚と軽くアイコンタクトしたとたん、物凄い揺れが。
咄嗟に危機感を感じ、急いでデスクの下へ逃げ込んだ。
何かにつかまらないと、しゃがんでもいられない。
天板に両手でしがみついた。
とにかく今までで経験したことのない揺れ。
目の前を、書類が飛んで行き、パソコンが倒れ、モニターが落ちてきた。
何が恐ろしいって、その時間が長いことだった。
終息に向かうどころか、益々揺れの度合いは大きくなる。
 
一番に頭に浮かんだのは、息子のことだ。
 
今朝、今日から短縮授業だと言っていた。3時には終わると。
「それじゃあ、お母さんの方が遅いから鍵を忘れないようにね」
そんな会話をしたのを思い出していた。
 
部活に所属していない息子は、いつも誰よりも早く制服に着替えて、
さっさと下校する。
もしかしたら、国道に架かる陸橋辺りを歩いていたのでは・・・
もし、一人きりだったら・・・
いろんな良くないことが、頭に浮かぶ。
無意識に、息子の名前を叫んで泣いていた。
同じようにデスクの下で身を縮める同僚も皆同様に、
我が子の名前を呼んで泣いていた。
 
少し揺れが収まりかけたので、とにかくこのビルを出ないと!と。
床に散らばった大切な書類を踏んづけ、机や倒れたロッカーの上を乗り越え、
何とかバッグを肩にかけ、携帯を握り締め、皆で非常階段へ向かった。
もっと上の階からも途中の階からもどんどん人が出てきて、
階段もたちまち満員となってしまった。
今またここで大きな余震が来たら、みんな共倒れになると思うと、
本当に恐ろしく、ただただ一刻も早く一階にたどり着きたかった。
 
やっとの思いで一階に着き、同僚と外へ出た。
そのビルの地域の避難場所に指定されている小学校へ行くようにと、
誰からともなく指示が飛び交い、言われるがまま向かった。
歩きながら、夫に携帯をかけるが全く通じないので、
きっと身内は誰一人その存在すら知らないだろう携帯の災害伝用言板に、
自分は無事なことと避難場所の小学校の名前を入れておいた。
 
行く途中の道路は、既にひどい状態だった。
亀裂が入り、段差が生じ、あらゆる所から泥が噴き出していた。
余談だが、私は、職場ではいつもスリッパのような上履きに履き替えているのだが、
その時初めて自分がちゃんとスニーカーに履き替えていたことに気付いた。
あの倒れたロッカーの下からスニーカーを引っ張り出し、
無意識のうちに、瞬時に履き替えていたようだ。
全く覚えが無かったことだったが、ドロドロの道を歩きながら、自分の冷静さに驚いていた。
 
何とか小学校の入り口に着いたが、
「この小学校関係者以外の方は入校しないでください!」
と、信じられないようなアナウンスがあり、
近隣の職場から避難してきた人達から、どよめきが上がった。
 
校門から校庭を見ると、すでに大勢の人が避難してきていて、
当然、その学校の児童達も校庭に集合していた。
児童のことを考えると、不特定多数の人間を入れたら、
また違った危険が起こらないとも限らない。
しかし、ここは近隣の人々の避難場所に指定されているんじゃないのか?
とも思ったが、
もうそんなことはどうでも良かった。
私は、ひたすら息子のことが心配だったから。
 
どうせ締め出しをくらって、中に入れないのなら、
私は、息子の中学校までこのまま歩いて行こうと思った。
ふと見ると、すぐそばに同じ職場のM川さんが半泣きで、おろおろしていた。
彼女の子供達は、ウチの息子と同じ中学校に長女が、
そして隣接する小学校には双子の子が在校している。
私はすぐ彼女に声をかけた。
「このまま、T中まで歩いて行こう。こんな所でじっとなんてしてらんないし!」
 
M川さんと二人で、川沿いの道まで出た所で、
二度目の大きな余震が起こった。
立ってられないくらいの揺れだったので、
私達は思わず近くの電柱にしがみつき、肩を抱き合った。
少し待って揺れが収まったら、さらに急がなきゃという気になった。
M川さんの子供達は、部活があるから多分それぞれまだ学校に居るはずだと言っていたが、
タケちゃんは・・・
 
どうかまだ学校に居ますように・・・
 
川の水はドロドロに濁っていた。
橋の継ぎ目にはガクンと亀裂が入っていて、
万が一にも橋が落ちてこの川にぶち込まれるのだけは勘弁だと、

M川さんと手を取り合って走って渡った。
 
友達がたくさん住んでいる生命保険会社の社宅の前まで来ると、
液状化が激しく、道が陥没し、車が頭から突っ込んで動けなくなっていた。
あまりにも恐ろしい光景に足がすくむ。
でも、ますます学校に急がなければという想いが強くなる。
ガードレールをまたいで、反対側の川沿いの歩道に渡ったが、
こちら側の道もぐちゃぐちゃで歩けない。
土手をよじ登り、なんとか学校までたどり着いた。
M川さんは、まず小学校に行ってみると言うので、
私達はそこで別れ、
私は中学校へ。
校庭へ走ると、グランドの真ん中に子供達が集合していた。

必死で我が子を探す。
 
ほとんどの子がジャージ姿の中、制服に着替えたタケちゃんを発見。
友達と何か喋って、ニコニコと笑っていた。
思わず涙が溢れた。
フラフラと彼に歩み寄り、
「ああ、良かった、まだ学校に居たんだね。良かった・・・」
というと、
「わっ!お母さん!どうしたの?迎えに来てくれたの?早ッ!」
とか言われてしまった(笑)
友達にも、
「タケちゃんのお母さん、スッゲーな!スーパーじゃん!」
「愛されてんな~」
とか(汗)。
確かに迎えに来ている保護者は、まだちらほら。
友達から冷やかされ、バツが悪い雰囲気だぁ~と思ったけど、
本人はさほど気にする様子もないので、思い切って、
「会社から直接来たんだよー 地震怖かったねーーー」
と言うと、
「マジ、すげぇー揺れた。アレ?お母さん上着は?」
避難する時、靴は履き替えたけど、
上着を取りに行くには、さらにロッカーを幾つも乗り越えなきゃならなくて、
そんな余裕はさすがに無く、上着は置きっぱなしにして、
メッチャ薄着スタイルのまま、学校に来てしまっていた。
担任に挨拶とお礼を言って、
校庭の隅っこの方で先生方の指示があるまで待機。
 
タケちゃんが無事なのを確認したら、次は夫。
再び、夫や夫の実家に電話をかけまくる。
しかし、やっぱり全く通じず。
メールもダメ。
関東以外の場所なら通じるかもと、京都の実家やヨッシーが居る岐阜に架けてみるも、
やはり全く通じない。
しかし、諦めがつかず、いつか送信できるだろうとメールを送信しておき、
また電話をかけ直した。
すると、奇跡的に京都の実家の家電に電話が通じ、
母にタケちゃんと私は無事で今は中学校に居ると伝えることができた。
そして再度、災害用伝言板に、タケちゃんも無事でT中にいるとメッセージを入れた。
 
子供の引き取りが開始されるまで、校庭を見渡すと、
地割れしていたり、液状化で水浸しでドロドロの箇所もあった。
あぁ、しばらくは学校再開は難しそうだなぁと思った。
 
しばらくして、続々と保護者が学校にやって来た。
知った顔を見つけるたびに、
「怖かったねぇーーー!!!大丈夫だった??」
と声を掛け合い、抱き合った。


大変なことになってしまった・・・

 
〈つづく・・・〉


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